title

第1部 第8章
 第5話 株式の上場と万代会長の死

『ソニー・モルモット論』というものが出て、人の口に上がるというのは、それだけソニーが世間の注目を浴びている証拠である。この時期、ソニーは急成長を遂げ、今や中小企業の域を脱して大企業の仲間入りを果たそうとしていたのだ。

 1955年8月8日、東京通信工業(ソニーの前身、以下東通工)の株式が店頭取引銘柄に指定された。当日の『日本経済新聞』には、「今日から店頭取引(136円)を始めた東京通信工業は、1、2月と小幅だが引き締まって登場している。明春からトランジスタ使用の小型ラジオ5万個の生産(現在5千個)を行う方針を持っており、売り上げも月5千万円から1億5千万円に急増する計画だという……」とある。
 そして、1958年の12月、いよいよソニーの株式は、東京株式第一部に上場銘柄として承認されることになった。これまでの業績、今後の将来性とも申し分ないとの評価を得たことになる。

 こうしてソニーが急激に成長を遂げたのは、井深の先見性とそれを助ける盛田の行動力、仕事を“道楽”にまでしてしまう技術陣、社長を信頼してついていった社員たちの会社を挙げてのチームワークの良さ、といったものが大きく貢献していたが、忘れてはならないのが、創立当初から、陰になり日向になって東通工をわが子のように可愛がってくれた経営陣である。

 その中の一人で、取締役会長の万代順四郎(ばんだい じゅんしろう)が亡くなった。公職追放の身であったとはいえ、それまでは財界の最長老であった人物だ。その万代が1947年には、雨が降れば部屋の中で傘をささなくては会議も開けないような東通工の相談役を、また1953年には「自分はこれまで第三者の地位において育成に務めてきたが、今度は一つ、お前たちの仲間に入ろう」と会長まで引き受けてくれたのであった。この時、社長をしていた前田多門(まえだ たもん)は「今まで大名だったのが、御家人くらいに転落したわけですが、それにもかかわらずお引き受けくださってありがたい」と冗談まじりに礼を述べたものだ。

 子供のいなかった万代にとって、ソニーは可愛い息子のひとりであった。また、万代は苦学の人であっただけに、どうにかして学生が苦労なしに勉強できるようにと、心から願っていた。そんな万代は、持っていたソニーの株券をすべて母校・青山学院へ寄贈したのである。後進の育成は、万代のもうひとりの息子に対する愛情の表れであったようだ。
「営利会社であるから、あくまで利益を上げなければならないが、いつでも世の中の役に立つことを考えていてほしい」。万代が常に口にしていた言葉である。井深はこの万代の遺志を受け、改めてこれからの自分たちの進むべき方向について決意した。

pict
社員の子供一人ひとりに、井深自らが手渡す「ランドセル贈呈式」

 万代が亡くなった1959年、ソニーでは、従業員家族で小学校へ入学する子供に対してランドセルを贈ることと、全国の小学校(現在は小学校および中学校)を対象に「ソニー理科教育振興資金制度」(現、ソニー教育資金)を設けた。ランドセルの贈呈については、戦後13年が経ち、日本の復興も目に見えて進んできたとはいえ、庶民の生活はそれほど楽とはいえず、小学校に上がる子供に余裕を持って新しいランドセルを買ってやれる家は少ない。ソニーに勤める社員とて同じだ。そこで少しでも社員の負担を軽くし、祝ってやろうという井深の発案でなされたものだ。

 また「理科教育振興資金」は、「経営が軌道に乗ったら、広く人々のため、社会のために科学技術の普及を行いたい」という井深の夢から出発し、「天然資源が少なく、人口が多いわが国の将来はすべての日本人が科学技術に関心を持ち、これを盛り立てていくことにかかる。次代を担うべき少年少女が、たとえ大きくなって技術者とならないまでも、科学技術に深い関心と興味を持つようになることを切望して……」設けられたものだ。

 このどちらも、その根底には、万代の人間に対する深い愛情と相通じるものがあり、いかに井深たちに与えた万代の影響が大きかったかがうかがわれる。




外国製品一辺倒の打破国産初のVTRもの言った潜在力
モルモットのソニー hidari  株式の上場と万代会長の死



go